2020年3月6日金曜日

夜回り先生がパリには284人

道のエデュケーター

首都圏の生活保護担当をしているとき、母子家庭が多かったのだが、子どもたちは学校につながっていないことの方が多かった。学校に連絡しても「学校に来ている子どもたちの対応で手一杯なので、福祉事務所が繋がっているのでしたら、そちらで対応してください、家庭訪問しても出てこないので学校は何もできません」という反応、警察からも「学校も行かないでずっとコンビニの前や駅でたまってるけどなんとかなりませんか」と電話が来たが、たまに路上で見つけて声をかけても提案できる活動は多くなかった。不登校支援学校の選択肢も多くなく、非行傾向にある若者にとって魅力的な活動内容ではなかった。そんな中、毎年何件も中学生の中絶手術の費用を負担する手続きをしたり、実際14歳で産む子どもの出産の手続きをしていた。男子については、15歳-18歳のこれまで学校に行っていなかった若者を何につなげればいいのか途方に暮れた。日本では学校に繋がっていない若者を支援する仕組みが十分ではない。


フランスの「道のエデュケーター」は、特別その職業に就きたいと憧れる若者もいる、地域の若者のリーダーのような存在でもある職業だ。

パリ市が年間予算22億円を割いている道のエデュケーター(éducateur de rue注1)は特別予防活動(Prévention spécialisée)をおこなっている専門職のことである。具体的には、日本の「夜回り先生」のように路上や公園で若者達に声をかけ、関係性を築き、支援するのだが、組織化されている。
道のエデュケーターの活動は19世紀からおこなわれていて、非行、犯罪予防が主な目的だったが、第二次世界大戦直後から政府の予防活動に組み込まれ、現在のスタイルは1986年の社会福祉家族法で定められている。児童福祉のミッションを担い、児童保護の目的として現在では行われているという枠組みになっている。
ただし、組織としての独立性と、活動家たちによる支援というスタイルは歴史的な背景を維持しており、パリ市では全て民間アソシエーションによる運営、 若者達は匿名性を保障されている。それゆえ、福祉事務所など公的機関のソーシャルワーカーより気軽に悩み相談をすることができる。

元はボランティア、学校の教員、福祉事務所職員、地域の活動家たちが連携しておこなっていたことを組織化してエデュケーターがメインで各機関と連携し、主に12歳から21歳までの、地域にいる若者グループ、 不登校や早期退学してしまった若者、家族や教育機関と良い関係にない若者などとの関係を築き、支援につなげる。社会活動への参加へと導き、責任ある自立した大人になるよう支える。他のアソシエーションと連携して若者自身だけでなく家族の支援へもつなげる。

パリ市では、市との取り決めにより定めた特に支援が必要とされる地域に配備されている。

 パリ市ホームページより

パリ市では12のアソシエーションの284人のエデュケーターが活動している。
事務所につめているのではなく、地域内で、主に公園にたまっている若者、中学校の出入り口付近での声かけなどをおこなっている。

「文化、社会、スポーツ」につなげることがまずは活動の柱になる。スポーツジムや体育館でイベントをするから来ないか誘ったり、料理教室など文化的な活動への参加、医療面では健康保険への加入の仕方を教える講座の開催、医療にかかる支援、予防接種を受けることについての支援、そして、例えば自動車・バイク教習を受けるよう誘い、その講習の過程を心理士やエデュケーターで継続して支えることで関係性を築き、就労支援にもつなげる。

16-21歳についてはバイトに誘うこともしている。不登校、職業安定所で仕事が見つからないかうまく参加できなかった、仲間と距離を置きたいけれど言い訳が見つからない、 ライフスタイルを変えたい、職業訓練から離脱してそのままになっている若者にとても有効とされている。引っ越し、内装、ペンキ塗り、修理、清掃、庭の管理などのアルバイトへと誘い、その仕事を専門としている人とエデュケーターの2人が一緒に仕事をし、職業の道へとつなげる。
ニュース記事より
宿泊施設もあり、夜間外にいる若者がいたら、宿泊させ、ゆっくり事情を聞くことができるシェルターとしての役割も果たしている。
短期での利用も、アパート1人暮らしの練習も、その後のフォローもしている。「一緒に生き、一緒にする」ことがモットーで宿泊施設には常時エデュケーターがいて生活全般を支える。
 
各アソシエーションが独自のスタイルを提案しているが、若者が自ら望んで福祉事務所や職業安定所に足を運ばなくても、どのような若者も取りこぼさずに様々な支援があることを提案し、つなげていくことができる。若者にとっては、どんな相談もすることができる地域の先輩のような存在であり、それらをフランスでは公式に提供することができているのだ。


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注1 エデュケーター資格は3年間の教育・対人援助技術の習得、実習で得られる資格。0歳から21歳を対象とする児童福祉、障害者福祉、母子やアルコール依存などを対象とした支援について学ぶ。
https://www.mairie19.paris.fr/ma-mairie/prevention-et-securite/prevention-specialisee-70 
https://www.lamontagne.fr/vichy-03200/actualites/les-educateurs-de-rue-de-la-prevention-specialisee-sont-presents-depuis-la-fin-des-annees-80-a-vichy_12425829/ 

2020年3月4日水曜日

福祉職員の負うリスク

日本で働いていたとき、福祉職員は十分守られていないと感じていた。

野田市虐待死事件で心愛ちゃんを担当した心理士も、裁判の証言で
「女児に心的外傷後ストレス障害の疑いがあると診断された」と伝えると、被告(虐待した父)から身分証の職員番号を書き取られ「児相ではなく職員個人として訴える」などと脅された。「私が殺されてもいいから止めたかった。今でも夢に見る」と泣きながら当時を振り返った。
とされている。職員がここまで矢面に出なければならないのはおかしい。

仕事なのに個人が負う身の危険、社会的危険
生活保護のソーシャルワーカーとして働いていたとき、受給者からさまざまな脅しを受けいてた。私の働いている席の後ろの壁には弾痕があり、以前拳銃を持って撃とうとした人がいるということだった。個人的にも、自宅訪問をするのだが、アルコール中毒の人の家で殴られそうになったこと、「そのうち刺されるよ、夜道に気をつけな」と言われたことなどがある。受給者がアルバイトを隠れてしていても、見つかると保護費から減額しなければならないことになっているので、それに対して怒った受給者に怒鳴られることなどしょっちゅうであった。その頃、他の県では全職員に防弾チョッキを支給するところなどがあり、私の部署では警察署から相手の攻撃を交わし押さえつける技術の講習があったが普段訓練しないととてもその場でできるようには思えなかった。
先輩職員には、受給者の家族から訴えられて裁判沙汰になっている職員もいるから、よくよく気をつけるようにと再三注意を受けていた。例えば精神的に脆い人が自殺し、福祉職員の名前が遺書にあって遺族に訴えられた人がいるから、十分記録には防衛線を張っておいた方がいい、といったことである。
仕事でしていることで個人がそこまで危険にさらされるのはおかしい。訴えられたり刺されたりするのは全く割に合わないのでこの仕事を続けたくないと思うようになった。

職員が守られ、大義名分を掲げて仕事をすることができる環境
フランスに来て、職員が1人危険にさらされたり、受給者から狙われたり恨まれたりしない仕組みにしているということがとても大きな違いだと思った。

児童保護は裁判所命令
児童福祉分野では、保護という判断に親が反対しているか協力的ではない場合は裁判所で決定がされる。実際保護される子どもの9割は裁判所命令による。
施設は裁判所命令で子どもを支援している立場、児童相談所は裁判所命令で親を支援する立場として堂々と活動することができる。
児童相談所職員による家庭での親教育支援の初回訪問に立ち会ったときも、子どもを叩いたことのある父親、止められなかった母親に対し、「私たちはあなたたちを助けるために来ました。これから一緒に、子どもたちと再び暮らせるように、父として母としてどのように成長していったらいいか考え話し合い、取り組んでいきましょう」と自己紹介していた。親は裁判所命令である以上児相職員に悪態をつくわけにもいかず、また、児相職員に悪い評価がつけられれば子どもを取り戻すのは先延ばしになってしまうので、提案されるプログラムに応じざるを得ない。
子どもの学校や施設についても、裁判所が許可した範囲を超えて親が近づくことなどがあれば、接近禁止命令が出たり、さらに子どもの居場所が親に秘密にされたりするので、学校や施設が危険な目にあうこともない。
そして、職員たちは親から脅迫メールがきたり、子どもに暴力をふるわれたり物を壊されたり盗まれたりする度に警察に被害届を出した上、裁判所に報告する。そのため、それらは全てその後の親と子どもへの更なるケアの必要性の証拠となっていく。

金銭に関することは全て会議で決めている
例えば、18歳以上で保護を継続して受けたい場合は、もう未成年ではないので裁判所で児童保護の判断は出ないため、本人の申請に応じて住居・生活費・教育支援が受けられるかどうか決まる。本人が申請し、担当ワーカーが調書を書くが、担当ワーカーが決めるわけではなく会議にかけられる。それも、部外者も招いた会議である。若者就労支援機関、地区のソーシャルワーカー、司法機関、精神衛生に関する機関なども参加した会議で決める。結果に不服がある場合は書面による申し出、もしくは裁判所への申し出のみ受け付けると明記している。なので、もし却下されたとしても、担当した個人を恨む構図にはならない。


職員が個人で対応を抱えることにはならないという職員自身の安全と働きやすさはもちろんのことだが、支援を受ける側にとっても、担当者によって対応が左右されることなく公平性があるというメリットがある。
また、日本では親の反対を心配して必要な支援が行き届いていないのが大きな問題だ。
2018年に起きた虐待死結愛ちゃんの件で児相職員が子どもに会えていないにも関わらず裁判所や警察の介入を望まなかったことを 「介入的な関わりよりも実母との関係性構築を優先する支援的な関わりが必要と判断した」 というのはこの一つの例だと思う。

職員が職務を遂行するにあたって安全は最低限必要なものである。
相手を支援するためにも相手の安全も守られる仕組みが必要である。

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こちらの記事を読んだ現役で日本の福祉職についている方がメッセージをくれたので紹介したい。
「残念ながら日本は今も変わらない。
誰も守ってくれないよ。児相担当の頃は、係長が面接に同席してフォローしてくれることもあったけど、訴えるとなれば市ではなく、僕個人が訴えられることは有り得る。そうなれば、僕が弁護士費用を出さないといけなくなるらしい。そのために、訴えられた時の保険が出来たけど、任意で保険料は自分持ち…
生活保護担当にいた時は、毎日怒鳴っている人がいて、しまいには、包丁持ったまま執務スペースに入ってきたり、女性が首を絞められたり色々ありました。そんなことがあっても1ヶ月位勾留されて出てきちゃう。」


町のオアシス (地域)

フランスには「地域の家」という地域の人が誰でも来て匿名でおしゃべりして行くことのできる場所がある。中には、心理士やソーシャルワーカーがいて専門的な解決を提案するような場所もあるし、ボランティアだけで運営している場所もある。

今回紹介するのはその一つ、 私が4年前から調査しているセーヌ・サン・ドニ県の児童保護施設の子どもたちがよくお世話になっている「町のオアシス」という名前の場所。
始めは近隣のボランティアによって作られた場所だが、今は県の予算で運営、常勤職員が1人いる。
道路から駐車場を通って砂利道を進むと、信じられないくらい様々な植物が生い茂った楽園のような場所が広がり、緑の下に長テーブルが一つ、その周りに椅子が14脚置いてある。小さな可愛い家から50代の女性が出てきてお茶を飲むかと勧められる。緑の中を散歩している人、少し離れた場所に椅子を置きゆっくりと過ごしている人。長テーブルに座ると先ほどの女性が隣に来てくれる。
子どもたちはそれぞれここに自由な時間に行って過ごす。

 ホームページより



自宅に住み、日中施設で過ごすという暮らしをしている子は土日や長期休暇の間家で母と2人きりになるのが苦手でここに来るようになった。縫製を自分の職業にしたいと考えているため、刺繍などを持ってきてボランティアの女性たちに教えてもらいながら課題に取り組む。


ケビン(仮名)という16歳の男の子は、施設でも落ち着きがなく、トラブルを起こすことが多く、また人と話すことが苦手だった。僕が、僕が、僕にくれ、それもくれ、常に大人が構ってくれないとあちこち壊して気を引こうとした。必死に人から与えてもらおうとしていた。ケビンにとってもここが唯一落ち着く場所となり、スタッフにさまざまな話をするようになり、町のオアシスが施設に情報提供し一緒に彼を支えるようになった。その中で、ケビンは初めて、5歳以降一回も会えていない、消息もわからない母に会ってみたいと口にすることができた。施設の職員がコミュニティのツテをたどり捜索活動をした。

母との再会もこの場所でおこなわれた。
「誕生部プレゼントは、0ユーロの価値のものだけど、永遠でもあるよ」
「何それ?」
ケビンは「何それ?」と7回言ったあと、「お母さん...?」と言った。
「お母さんどんな人だと思う?」
 190cmあるケビンは自分より30cmくらい上に手をかざして「これくらい大きくて」
「きれいで、大きくて、僕よりずっと大きくて..」
彼の中でお母さんの記憶は5歳のときから止まっている。お母さんは妖精のようで優しく、自分の人生を美しく塗り替えると思っていた。

それから先のケビンとお母さんの再会も町のオアシスでおこなわれた。
ケビンが18歳になり1人暮らしを始めたときは職員の知り合いの持っている空家が提供された。ケビンによって破壊され、引き上げられたが、職員はそのことも笑いながら話す。
職員アブドゥはいつも温かい笑顔で我が子のことのように目を細めて話す。「この間、ケビンが、買い物に行くけど何がほしい?って言うんだ。初めて僕のことを思いやってくれたんだよ。それで、じゃあクッキーと言って、ケビンはそのあと用事もあったから忘れたかと思っていたら夕方になってクッキーを持って帰って来たんだ。財布を確認したら、ちゃんとそのぶんお金が減っているから盗んだものでもない。嬉しかったね!」
ケビンが町のオアシスのスタッフたちを1人暮らしの家の食事に招いたときの動画を職員は宝物のように何度も見せてくれた。Give and takeができるようになれば、支援の成功だと言う。

母と再会できてもケビンにとってそれはハッピーエンドではなかった。
母はケビンといると嬉しくていつも笑っているが、それがケビンには腹がたつ。「僕を見捨てたくせに何が面白いんだ」と思ってしまう。
しかし母は息子を見捨てたとは一切認めない。「毎日ケビンを思わない日はなかった」と言い張る。現実に対する2人の認識には大きな隔たりがある。

ケビンはアパートを借り一人暮らしをし、 仕事もしている。母はそこに転がり込み、ケビンに一銭も払っていない。しかしケビンには母を追い出すことはできない。

児童福祉の支援が切れたあとも、ケビンと母のその後まで見守ってくれる、ケビンもお母さんもいつでも話をしに来ることのできる場所がある。ケビンには母も父もいなかったが、実家のように必ず笑顔で迎えてくれるアブドゥがいる。

施設の子どもに職員たちは、「実親だけが親ではない、social father, social mother を見つけなさい、必ず助けてくれる人がいるから」といつも言っていた。ケビンはアブドゥというsocial fatherに町のオアシスで出会うことができた。

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基本情報

職業:ライター / 通訳 キーワード:子どもの福祉、家族政策、子どもの権利、教育、社会的養護、周産期ケア 掲載・発表 『対人援助学マガジン』 2021年9月第46号 pp.282-326 「フランスのソーシャルワーク(5)児...