2020年3月23日月曜日

フランスの不登校児用専用学校①

フランスの不登校児専用学校① 
ー ケアが必要な子どもたちに最先端・最高のケアを ー

 私が調査をしているパリ郊外の不登校児専用学校について数回にわたって紹介したい。
他の記事にも共通しているが、フランスは県や地域によって仕組みが大きく異なることと、様々な民間団体が県の委託を受け運営しているのでフランス全域で同じ取り組みがされているわけではない。
 
 以前の記事でも述べたようにフランスで不登校でいることは制度上許されておらず、両親が積極的に状況を改善しない限り裁判所の判断も仰ぐ。本人の希望もふまえ、自宅にソーシャルワーカーが通う在宅教育支援、施設入所、全寮制学校への転校、日中入所などの方法がとられる。そのうち日中入所施設に著者は2016年より調査のため通っているのでご紹介したい。

 
最先端の学術、専門性を持ったパートナーと組み最高の教育を 
ー 外部の社会的資源を活用 ー
 児童相談所のケアを受けるようになれば、在宅であれ施設や寮であれ、きめ細やかな取り組みをしている私立の学校や、専門家の治療も受けることができるようになるということである。
 
 私の調査している日中入所施設はアトリエ・スコレール(学校アトリエ)という名前で、場所はパリ郊外にある。アソシエーション(民間団体)が運営しており、資金は児童保護施設と同じように県からまかなわれている。独自に寄付なども受け付けており、旅行などの活動費は寄付でまかなっている。例えば近所に支店のある銀行で子どもたちの描いた絵の展覧会をおこない、銀行職員の家族などが購入してくれる。多くの子どもが裁判官命令により来ており(親の同意なし)、一部の子どもは親子の希望で入所している。日中入所なのでそれぞれ自宅から通っている。
 外部の力を大いに利用しており、研究者の出入りには積極的である。ある大学の脳科学の研究チームは、子どもたちの脳波を定期的に調べに来ていて、どのような活動や支援が子どもたちの脳のどの部分に影響しているか研究すると同時に、教育チームに定期的に脳科学の世界で立証されている研究の中で教育に使えるアイデアをレクチャーしている。私を受け入れてくれたのも、同じ理由で、まだ学生だったにも関わらず、社会学の世界で勉強した内容、観察して考えたことを職員にフィードバックして欲しいと期待されていたし、子どもたちにとってはなるべく多くの大人に出会うことが重要だと考えられている。私も通ううちにチームや子どもたちの要望に応えて、食堂で日本食を作ってあげたり、子どもたちをラーメン屋さんに連れて行ってあげたり、イベントを開くときに在仏日本企業の協力を仰いだり、日本好きの子どもの日本留学を実現したりするようになった。自分の父・母から期待することを全て得られなくても「出会った人が与えてくれるものは全て受け取りなさい」、実親とは別に「ソーシャルファザー」「ソーシャルマザー」を見つけて相談したりいい影響をもらったりしなさい、と子どもたちは教えられていた。日本では、一人の子どもだけお出かけに連れ出すなどは不公平だと禁止されていることがあるが、ここでは「子どもたちは世の中が不公平なことはとっくに知っている。自分に与えられるものは、自分が関係性を築けたということだから受け取りなさい」と言われていた。

子どもの通う学校も施設も子どもが決め、自分で契約する
 裁判所命令、もしくは親子の希望で児童相談所のフォローが開始された子どもは、児童相談所のワーカーとともに複数の場所を訪問する。
 面接で、まずは子どもが希望を言い、職員がアトリエ・スコレールの紹介をする。後日子どもから入所の希望があれば施設は受け入れの可否を決め、お互いに入所の方向性となったら子どもは再度訪問しアトリエ・スコレールでの一年間の目標と約束事を設定、お互いにサインをして契約の成立となる。入所が決まらなかった場合は児童相談所職員は他の施設を探ことになる。契約なので、子どもも継続するためには約束事を守らなければならない。

脳を目覚めさせ、成功体験を積み重ねれば自ら勉強に再チャレンジしたくなる
最初の数ヶ月は自信をつけることに専念
 アトリエ・スコレールは11歳から18歳まで受け入れており、個別指導をする。それぞれの子どもに先生が個別の時間割を作る。最初は子どもの希望するアクティビティがメインであり勉強はおこなわない。脳を活性化させ「初めてのことに取り組んでみたい」「もっと上手になりたい」という気持ちを十分育てるためである。そして「できなかったことができるようになる」経験を重ねる中で自信をつけ、チャレンジしたい内容が自然に増える過程の中で勉強に再度取り組むような流れを作るためである。例えば、馬に乗ったことのない子どもが自在に馬を乗りこなすようになることの与える効果はとても大きい。
 唯一皆が一緒に受ける授業は演劇である。実際に舞台俳優から習い、年度末に発表会をするのだが、子どもたちが人前で表現することを自然にできるようになること、自分の得意な役柄を見つけて演じ皆に賞賛されること、皆で雰囲気を作り共有の楽しい時間を作り作品を作っていくこと、大きな成長を見ることのできる機会である。また、演技の中で感情のコントロールを学ぶようになる。目指しているものを実現するために今自分が何をしなければならないか考える機会にもなる。
 子どもの準備ができたら勉強を始めるが、勉強は授業の形をとるのではなく個別指導で、勉強の遅れを取り戻したら通信制の学校に登録して勉強を先生に見守られながら進める。問題なく通信制の勉強についていけるようになったら一般の学校に戻るという流れである。

 アトリエ・スコレール全体の時間割は以下である
  
その中の1人の生徒のものは以下でなる。彼は17歳と最終学年で一般の高校に編入する直前なので勉強が多めだ。
彼はパソコンやゲームが得意なので、プロのゲームプログラマーのもとに毎週月曜通い終日プログラミングをして自身のゲームを完成させた。プロの人たちと一緒の環境でプレッシャーに打ち勝つことが挑戦であった。しかし、一年以上通うなかで、漠然とした夢だったプログラマーというものがどのような仕事か理解し、仕事とするために自分がするべきことも明確になった。タイ・ボクシングを習いたいと希望を言ってからは、放課後、アトリエのスタッフと一緒に外部のクラスに通うようになった。
このように、外部の機関も積極的にプログラムに組み込む。
修学旅行も子どもに合わせて決める。セネガル人の父がいるけど会ったことのない子どもはセネガルへの一人旅に出たし、施設を来年出るが親友と一緒の時間を過ごしたい二人は二人旅、心理士と旅行しゆっくり話したい子どもは心理士と出かけた。
ある日本好きの子どもは日本のフリースクールに三週間の留学を実現した。
続く

2020年3月18日水曜日

移民の子どもたち


ヨーロッパに大量に到着している移民はその後どう過ごしているのか?
パリの児童保護施設から



2018年には4万人、外国から身寄りのない未成年が到着している。居住目的の移民全体では同年255500人である。
未成年で家族がいない場合は即日保護され、翌日から学校に通うことができる。フランス人の未成年と同じ権利が与えられるということである。

パリ市で児童相談所が管轄する施設・里親・アパートで暮らしている未成年(18歳未満)4900人、その33%(1350)も海外から単身渡仏した未成年が占めている。

移民と言っても、実際福祉施設で出会う子どもの多くが紛争地出身ではない。コンゴ、コートジボワール、ギニアなどフランスの旧植民地から来ている。子どもたちに話を聞いてみると、自国での将来像が描けない、家族に酷使されている、学費が有料で通えないというケースと、家族がお金を出し合って一番優秀な子どもをフランスに送り、その子が成功して家族を呼び寄せてくれることを期待しているケースと主にふた通りある。いずれにしてもフランス語の国から来ているので移住先はフランス以外考えなかったと言う。帝国主義の招いた結果である。


施設で出会った少女を二人紹介する。

マニュエラ 15歳 コードジボワール出身
「継母に家政婦のような生活を強いられていたので、知り合いのおばさんに誘われて家のお金を全部持って逃げてきました。学校が有料なので13歳までしか行けていなかったです。銀行がないので家の金を全て持って出た。すぐにそのおばさんに渡したからいくらあったかは知らない。8月に現地を出て、陸路で何度も車を乗り換えブルキナファソ、リビア、それから船に乗って11月にイタリア経由でパリに到着しました。陸路はすごくすごくすごく危ない。二度としたくない。パリに行く電車の中で知らないおじさんが警察署に行けばいいと教えてくれて、警察署まで連れて行ってくれた。その日のうちにこの施設に連れてこられた。翌日は語学の学校に連れて行ってもらって、今フランス語をすごくすごく上手になるように勉強している。クリスマス過ぎたらテストをして普通の学校に入る予定。寒いけど、学校に行ってしたい仕事を選ぶのが楽しみです」

ディアン 14歳 コンゴ出身
「学校から帰ると、叔父が家にいて、父が逮捕されてもう学校に行くお金が払えなくなったのでフランスに行けと言われました。私も高校まで出たかったので同意しました。母や他の家族にお別れを言うこともできないまま迎えに来た人と飛行機に乗りました。その人はパリ郊外の路上で「あそこが警察署だからあそこに行きなさい」と言って別れました。警察署で、一人で来て誰の連絡先も知らないと言うと、一時間後に児童相談所の人が迎えに来てここの保護所に連れて来てくれました。もうすぐ長く住める施設に移動するので近々見学に行きます。裁判では、18歳までは生活費や学費は出るから、それまでにその後自分でやっていけるように準備するように言われました。ここに到着して翌日から学校には行っていました。ちゃんと仕事をして母や家族を呼び寄せます。フランスの学校は英語もスペイン語も勉強できますし気に入っています」


日本にいる難民の子どもについて、国連子どもの権利委員会から指摘を受けていて、「保護者のいない難民の子どもをケアする機構が確立されていない」「犯罪の疑いが存在しない場合でさえ収容する慣行が広く行われている」とし、「庇護希望者の子どもへの宿泊、ケア、教育へのアクセスを提供するための正式な機構の確立」が求められている。フランスでは、海外から来た未成年にも、身分証明書やパスポートなどの書類もない時点からフランスの子どもと同じ権利を保障している。パリ市の場合は予防児童保護セクションの中に「自立と職業訓練」セクションがあり、「単身未成年教育部門」が設けられている。


施設の中での移民
「移民 子ども」などとインターネット検索するとすぐに児童相談所の一覧などが出てきて、誰でもアクセスできるようになっている。
彼らは、なるべく同郷の人がいない施設に入れられる。早くフランス人としての生活に慣れることができるためである。私の調査した施設では未成年単身移民は奪い合いの状態であった。職員会議で次に受け入れたい子どもを選ぶのだが、フランスで育ち虐待を受けてきた子どもたちに比べ、移民の子どもは志が高く優秀な場合が多く、決して学業や職業訓練を疎かにすることがないので大歓迎なのだ。多くの場合父権制の強い、大家族で育ってきているので決して職員に歯向かったり失礼な態度をとることがないことを強調する職員もいた。
施設で出会う16-17歳の子どもたちにインタビューしても「フランスに来てどうですか?」と聞くと「エッフェル塔が美しくて感動しました!コンゴではあんなに美しい建造物は見たことがありませんでした」「学校で毎日勉強できるのが幸せです」などと屈託がない。同じ施設にもう4年調査で通っているのだが、一言もフランス語が話せなかった子どもが4ヶ月もすれば話せるようになり、二年で学年トップに名前を連ねるようになるなど、目を見張るものがある。最初は発音をバカにされるなどと言っていても、学年トップになって周りの生徒の尊敬を集めている。彼らの成長と、美術館見学や遠足などどのような機会も感激して参加するので彼らのエネルギーに職員は元気づけられ、彼らの歩みの壮絶さとパワーにフランス出身の施設の子どもたちは刺激を受けているところもあった。

実際、一般の家庭の子どもの学力の平均と、施設の子どもの平均はほぼ同じで、その理由は大半であるフランスの家庭で育って虐待などの理由で施設に来ている子どもは平均が低いのだが、少数である単身移民の子どもたちがとても好成績なので平均を大きく引き上げているということである。

児童相談所での保護は18歳までなのだが、学業や職業訓練中の際は21歳まで引き延ばすことができる。ただ、17歳くらいで到着すると保護の期間が長く残っているわけではないので、かなり早い段階で「空調整備士コース」など普通高校ではなく職業高校の、職業にすぐに結びつく実地研修の多いコースを割り当てられていることが多かった。早い時期にフランスに到着しないと医師や司法関係など年数のいる学問は選択しにくいと言われている。

移民二世、三世
しかし全ての移民が成功するわけではない。実際パリやサン・ドニ県の施設で出会うフランスで生まれ育った子どもは移民二世、三世である場合がとても多い。一世が成功しないと、母国の家族との関係が悪くなり帰りづらくなり、フランスの同郷の人たちにも境遇を隠すようになり、フランス社会に適応できず孤立する。そして子どもに過度な期待をしたり依存したりしてしまう中で子どもに負荷がかかり、保護されてきていた。
ある15歳の女の子は母が離婚した後精神的に不安定で外が怖く自宅に引きこもり、下界への不信感から学校にも通わせず家に置いていたことで保護された。
現在移民一世と二世だけで人口の21%であると言う。移民集団は1914年から来ているのでもう四世、五世になっている計算で、彼らも含めるとどれだけ人数がいるか計り知れない。現場の職員たちは数々の移民の子孫たちを支援してきているので、なんとか一世が成功できるよう、力を入れて支えている。
そして、家庭内異文化(親子の文化的背景の違い)を専門としている心理士もいる。例えば中国で生まれ育った親と、フランスで生まれ育った二世の子どもでは価値観や考え方が違い、葛藤が生まれたり親子の意見の相違の原因になったりする。最初は訪れた人をケアし、続いて家族セラピーとして他のメンバーも参加し家庭内の循環を改善するケアもおこなわれる。

パリ市の職員は言う。「滞在許可があるかどうか、収入があるかどうか関係なく、母はホームレスで道に暮らしていても滞在許可がなくても子どもは学校に行くことができ、そこからその家族のサポートにつながるのです。社会が全ての人に「存在する」ことを認めて対応することです。」
「移民については100年の歴史があり、その結果を目の当たりにしているので、未来の投資としての教育やケアの必要性については国民全体に共通認識があると言っていいと思います。」
自分の住む国に来た以上、その人たちの人生を支える覚悟で取り組んでいることを感じさせる言葉である。


http://www.rfi.fr/fr/afrique/20190412-etre-mineur-isole-etranger-france-eric-sandlarz-centre-primo-levi

2020年3月6日金曜日

夜回り先生がパリには284人

道のエデュケーター

首都圏の生活保護担当をしているとき、母子家庭が多かったのだが、子どもたちは学校につながっていないことの方が多かった。学校に連絡しても「学校に来ている子どもたちの対応で手一杯なので、福祉事務所が繋がっているのでしたら、そちらで対応してください、家庭訪問しても出てこないので学校は何もできません」という反応、警察からも「学校も行かないでずっとコンビニの前や駅でたまってるけどなんとかなりませんか」と電話が来たが、たまに路上で見つけて声をかけても提案できる活動は多くなかった。不登校支援学校の選択肢も多くなく、非行傾向にある若者にとって魅力的な活動内容ではなかった。そんな中、毎年何件も中学生の中絶手術の費用を負担する手続きをしたり、実際14歳で産む子どもの出産の手続きをしていた。男子については、15歳-18歳のこれまで学校に行っていなかった若者を何につなげればいいのか途方に暮れた。日本では学校に繋がっていない若者を支援する仕組みが十分ではない。


フランスの「道のエデュケーター」は、特別その職業に就きたいと憧れる若者もいる、地域の若者のリーダーのような存在でもある職業だ。

パリ市が年間予算22億円を割いている道のエデュケーター(éducateur de rue注1)は特別予防活動(Prévention spécialisée)をおこなっている専門職のことである。具体的には、日本の「夜回り先生」のように路上や公園で若者達に声をかけ、関係性を築き、支援するのだが、組織化されている。
道のエデュケーターの活動は19世紀からおこなわれていて、非行、犯罪予防が主な目的だったが、第二次世界大戦直後から政府の予防活動に組み込まれ、現在のスタイルは1986年の社会福祉家族法で定められている。児童福祉のミッションを担い、児童保護の目的として現在では行われているという枠組みになっている。
ただし、組織としての独立性と、活動家たちによる支援というスタイルは歴史的な背景を維持しており、パリ市では全て民間アソシエーションによる運営、 若者達は匿名性を保障されている。それゆえ、福祉事務所など公的機関のソーシャルワーカーより気軽に悩み相談をすることができる。

元はボランティア、学校の教員、福祉事務所職員、地域の活動家たちが連携しておこなっていたことを組織化してエデュケーターがメインで各機関と連携し、主に12歳から21歳までの、地域にいる若者グループ、 不登校や早期退学してしまった若者、家族や教育機関と良い関係にない若者などとの関係を築き、支援につなげる。社会活動への参加へと導き、責任ある自立した大人になるよう支える。他のアソシエーションと連携して若者自身だけでなく家族の支援へもつなげる。

パリ市では、市との取り決めにより定めた特に支援が必要とされる地域に配備されている。

 パリ市ホームページより

パリ市では12のアソシエーションの284人のエデュケーターが活動している。
事務所につめているのではなく、地域内で、主に公園にたまっている若者、中学校の出入り口付近での声かけなどをおこなっている。

「文化、社会、スポーツ」につなげることがまずは活動の柱になる。スポーツジムや体育館でイベントをするから来ないか誘ったり、料理教室など文化的な活動への参加、医療面では健康保険への加入の仕方を教える講座の開催、医療にかかる支援、予防接種を受けることについての支援、そして、例えば自動車・バイク教習を受けるよう誘い、その講習の過程を心理士やエデュケーターで継続して支えることで関係性を築き、就労支援にもつなげる。

16-21歳についてはバイトに誘うこともしている。不登校、職業安定所で仕事が見つからないかうまく参加できなかった、仲間と距離を置きたいけれど言い訳が見つからない、 ライフスタイルを変えたい、職業訓練から離脱してそのままになっている若者にとても有効とされている。引っ越し、内装、ペンキ塗り、修理、清掃、庭の管理などのアルバイトへと誘い、その仕事を専門としている人とエデュケーターの2人が一緒に仕事をし、職業の道へとつなげる。
ニュース記事より
宿泊施設もあり、夜間外にいる若者がいたら、宿泊させ、ゆっくり事情を聞くことができるシェルターとしての役割も果たしている。
短期での利用も、アパート1人暮らしの練習も、その後のフォローもしている。「一緒に生き、一緒にする」ことがモットーで宿泊施設には常時エデュケーターがいて生活全般を支える。
 
各アソシエーションが独自のスタイルを提案しているが、若者が自ら望んで福祉事務所や職業安定所に足を運ばなくても、どのような若者も取りこぼさずに様々な支援があることを提案し、つなげていくことができる。若者にとっては、どんな相談もすることができる地域の先輩のような存在であり、それらをフランスでは公式に提供することができているのだ。


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注1 エデュケーター資格は3年間の教育・対人援助技術の習得、実習で得られる資格。0歳から21歳を対象とする児童福祉、障害者福祉、母子やアルコール依存などを対象とした支援について学ぶ。
https://www.mairie19.paris.fr/ma-mairie/prevention-et-securite/prevention-specialisee-70 
https://www.lamontagne.fr/vichy-03200/actualites/les-educateurs-de-rue-de-la-prevention-specialisee-sont-presents-depuis-la-fin-des-annees-80-a-vichy_12425829/ 

2020年3月4日水曜日

福祉職員の負うリスク

日本で働いていたとき、福祉職員は十分守られていないと感じていた。

野田市虐待死事件で心愛ちゃんを担当した心理士も、裁判の証言で
「女児に心的外傷後ストレス障害の疑いがあると診断された」と伝えると、被告(虐待した父)から身分証の職員番号を書き取られ「児相ではなく職員個人として訴える」などと脅された。「私が殺されてもいいから止めたかった。今でも夢に見る」と泣きながら当時を振り返った。
とされている。職員がここまで矢面に出なければならないのはおかしい。

仕事なのに個人が負う身の危険、社会的危険
生活保護のソーシャルワーカーとして働いていたとき、受給者からさまざまな脅しを受けいてた。私の働いている席の後ろの壁には弾痕があり、以前拳銃を持って撃とうとした人がいるということだった。個人的にも、自宅訪問をするのだが、アルコール中毒の人の家で殴られそうになったこと、「そのうち刺されるよ、夜道に気をつけな」と言われたことなどがある。受給者がアルバイトを隠れてしていても、見つかると保護費から減額しなければならないことになっているので、それに対して怒った受給者に怒鳴られることなどしょっちゅうであった。その頃、他の県では全職員に防弾チョッキを支給するところなどがあり、私の部署では警察署から相手の攻撃を交わし押さえつける技術の講習があったが普段訓練しないととてもその場でできるようには思えなかった。
先輩職員には、受給者の家族から訴えられて裁判沙汰になっている職員もいるから、よくよく気をつけるようにと再三注意を受けていた。例えば精神的に脆い人が自殺し、福祉職員の名前が遺書にあって遺族に訴えられた人がいるから、十分記録には防衛線を張っておいた方がいい、といったことである。
仕事でしていることで個人がそこまで危険にさらされるのはおかしい。訴えられたり刺されたりするのは全く割に合わないのでこの仕事を続けたくないと思うようになった。

職員が守られ、大義名分を掲げて仕事をすることができる環境
フランスに来て、職員が1人危険にさらされたり、受給者から狙われたり恨まれたりしない仕組みにしているということがとても大きな違いだと思った。

児童保護は裁判所命令
児童福祉分野では、保護という判断に親が反対しているか協力的ではない場合は裁判所で決定がされる。実際保護される子どもの9割は裁判所命令による。
施設は裁判所命令で子どもを支援している立場、児童相談所は裁判所命令で親を支援する立場として堂々と活動することができる。
児童相談所職員による家庭での親教育支援の初回訪問に立ち会ったときも、子どもを叩いたことのある父親、止められなかった母親に対し、「私たちはあなたたちを助けるために来ました。これから一緒に、子どもたちと再び暮らせるように、父として母としてどのように成長していったらいいか考え話し合い、取り組んでいきましょう」と自己紹介していた。親は裁判所命令である以上児相職員に悪態をつくわけにもいかず、また、児相職員に悪い評価がつけられれば子どもを取り戻すのは先延ばしになってしまうので、提案されるプログラムに応じざるを得ない。
子どもの学校や施設についても、裁判所が許可した範囲を超えて親が近づくことなどがあれば、接近禁止命令が出たり、さらに子どもの居場所が親に秘密にされたりするので、学校や施設が危険な目にあうこともない。
そして、職員たちは親から脅迫メールがきたり、子どもに暴力をふるわれたり物を壊されたり盗まれたりする度に警察に被害届を出した上、裁判所に報告する。そのため、それらは全てその後の親と子どもへの更なるケアの必要性の証拠となっていく。

金銭に関することは全て会議で決めている
例えば、18歳以上で保護を継続して受けたい場合は、もう未成年ではないので裁判所で児童保護の判断は出ないため、本人の申請に応じて住居・生活費・教育支援が受けられるかどうか決まる。本人が申請し、担当ワーカーが調書を書くが、担当ワーカーが決めるわけではなく会議にかけられる。それも、部外者も招いた会議である。若者就労支援機関、地区のソーシャルワーカー、司法機関、精神衛生に関する機関なども参加した会議で決める。結果に不服がある場合は書面による申し出、もしくは裁判所への申し出のみ受け付けると明記している。なので、もし却下されたとしても、担当した個人を恨む構図にはならない。


職員が個人で対応を抱えることにはならないという職員自身の安全と働きやすさはもちろんのことだが、支援を受ける側にとっても、担当者によって対応が左右されることなく公平性があるというメリットがある。
また、日本では親の反対を心配して必要な支援が行き届いていないのが大きな問題だ。
2018年に起きた虐待死結愛ちゃんの件で児相職員が子どもに会えていないにも関わらず裁判所や警察の介入を望まなかったことを 「介入的な関わりよりも実母との関係性構築を優先する支援的な関わりが必要と判断した」 というのはこの一つの例だと思う。

職員が職務を遂行するにあたって安全は最低限必要なものである。
相手を支援するためにも相手の安全も守られる仕組みが必要である。

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こちらの記事を読んだ現役で日本の福祉職についている方がメッセージをくれたので紹介したい。
「残念ながら日本は今も変わらない。
誰も守ってくれないよ。児相担当の頃は、係長が面接に同席してフォローしてくれることもあったけど、訴えるとなれば市ではなく、僕個人が訴えられることは有り得る。そうなれば、僕が弁護士費用を出さないといけなくなるらしい。そのために、訴えられた時の保険が出来たけど、任意で保険料は自分持ち…
生活保護担当にいた時は、毎日怒鳴っている人がいて、しまいには、包丁持ったまま執務スペースに入ってきたり、女性が首を絞められたり色々ありました。そんなことがあっても1ヶ月位勾留されて出てきちゃう。」


町のオアシス (地域)

フランスには「地域の家」という地域の人が誰でも来て匿名でおしゃべりして行くことのできる場所がある。中には、心理士やソーシャルワーカーがいて専門的な解決を提案するような場所もあるし、ボランティアだけで運営している場所もある。

今回紹介するのはその一つ、 私が4年前から調査しているセーヌ・サン・ドニ県の児童保護施設の子どもたちがよくお世話になっている「町のオアシス」という名前の場所。
始めは近隣のボランティアによって作られた場所だが、今は県の予算で運営、常勤職員が1人いる。
道路から駐車場を通って砂利道を進むと、信じられないくらい様々な植物が生い茂った楽園のような場所が広がり、緑の下に長テーブルが一つ、その周りに椅子が14脚置いてある。小さな可愛い家から50代の女性が出てきてお茶を飲むかと勧められる。緑の中を散歩している人、少し離れた場所に椅子を置きゆっくりと過ごしている人。長テーブルに座ると先ほどの女性が隣に来てくれる。
子どもたちはそれぞれここに自由な時間に行って過ごす。

 ホームページより



自宅に住み、日中施設で過ごすという暮らしをしている子は土日や長期休暇の間家で母と2人きりになるのが苦手でここに来るようになった。縫製を自分の職業にしたいと考えているため、刺繍などを持ってきてボランティアの女性たちに教えてもらいながら課題に取り組む。


ケビン(仮名)という16歳の男の子は、施設でも落ち着きがなく、トラブルを起こすことが多く、また人と話すことが苦手だった。僕が、僕が、僕にくれ、それもくれ、常に大人が構ってくれないとあちこち壊して気を引こうとした。必死に人から与えてもらおうとしていた。ケビンにとってもここが唯一落ち着く場所となり、スタッフにさまざまな話をするようになり、町のオアシスが施設に情報提供し一緒に彼を支えるようになった。その中で、ケビンは初めて、5歳以降一回も会えていない、消息もわからない母に会ってみたいと口にすることができた。施設の職員がコミュニティのツテをたどり捜索活動をした。

母との再会もこの場所でおこなわれた。
「誕生部プレゼントは、0ユーロの価値のものだけど、永遠でもあるよ」
「何それ?」
ケビンは「何それ?」と7回言ったあと、「お母さん...?」と言った。
「お母さんどんな人だと思う?」
 190cmあるケビンは自分より30cmくらい上に手をかざして「これくらい大きくて」
「きれいで、大きくて、僕よりずっと大きくて..」
彼の中でお母さんの記憶は5歳のときから止まっている。お母さんは妖精のようで優しく、自分の人生を美しく塗り替えると思っていた。

それから先のケビンとお母さんの再会も町のオアシスでおこなわれた。
ケビンが18歳になり1人暮らしを始めたときは職員の知り合いの持っている空家が提供された。ケビンによって破壊され、引き上げられたが、職員はそのことも笑いながら話す。
職員アブドゥはいつも温かい笑顔で我が子のことのように目を細めて話す。「この間、ケビンが、買い物に行くけど何がほしい?って言うんだ。初めて僕のことを思いやってくれたんだよ。それで、じゃあクッキーと言って、ケビンはそのあと用事もあったから忘れたかと思っていたら夕方になってクッキーを持って帰って来たんだ。財布を確認したら、ちゃんとそのぶんお金が減っているから盗んだものでもない。嬉しかったね!」
ケビンが町のオアシスのスタッフたちを1人暮らしの家の食事に招いたときの動画を職員は宝物のように何度も見せてくれた。Give and takeができるようになれば、支援の成功だと言う。

母と再会できてもケビンにとってそれはハッピーエンドではなかった。
母はケビンといると嬉しくていつも笑っているが、それがケビンには腹がたつ。「僕を見捨てたくせに何が面白いんだ」と思ってしまう。
しかし母は息子を見捨てたとは一切認めない。「毎日ケビンを思わない日はなかった」と言い張る。現実に対する2人の認識には大きな隔たりがある。

ケビンはアパートを借り一人暮らしをし、 仕事もしている。母はそこに転がり込み、ケビンに一銭も払っていない。しかしケビンには母を追い出すことはできない。

児童福祉の支援が切れたあとも、ケビンと母のその後まで見守ってくれる、ケビンもお母さんもいつでも話をしに来ることのできる場所がある。ケビンには母も父もいなかったが、実家のように必ず笑顔で迎えてくれるアブドゥがいる。

施設の子どもに職員たちは、「実親だけが親ではない、social father, social mother を見つけなさい、必ず助けてくれる人がいるから」といつも言っていた。ケビンはアブドゥというsocial fatherに町のオアシスで出会うことができた。

注目の投稿

基本情報

職業:ライター / 通訳 キーワード:子どもの福祉、家族政策、子どもの権利、教育、社会的養護、周産期ケア 掲載・発表 『対人援助学マガジン』 2021年9月第46号 pp.282-326 「フランスのソーシャルワーク(5)児...